・中国の長い歴史において、天命思想と易姓革命から生まれたものは、支配と収奪と統制、そして周期的な動乱と戦争であった。このような歴史は天下万民にとって、苦難の連続以外の何物でもなかった(p20)
・南宋王朝になると、儒教の変種である朱子学が誕生した、官僚になる者に対する徳知主義の要求が具体化された。格物(外部の物事を研究)・致知(物事のなかにある理を理解)・誠意・正心・修身(その具体的の3方法)・斉家・治国・平天下(やるべきことの3つ)、の八条目である、これに加えて中華思想の世界観がある(p24,25、150)
・古代日本では、儒教思想は官僚の世界に限定、社会全体に広がるような思想や倫理にならなかった、仏教思想が中心であった、これは中華帝国と対抗するためだったのかもしれない、浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗・時宗はすべて仏門の人々(p39、42、47、64)
・朝貢体制においては、周辺国の国王や首長は誰一人として、皇帝・天子と号することはできず、皇帝の臣下として、皇帝より一段下の「王」の称号を頂戴することになっていた(p49)
・最後の班田令は唐帝国が滅亡する5年前(902年)であるが、中国はそれ以降「五大十国」の分裂時代に突入し、外部に脅威を与える存在ではなくなったので、外部脅威への対応策として採用された律令制も歴史的役割を終えて消滅する運命となった(p74)
・平安遷都は、南都六宗(三論、成実、法相、倶舎、華厳、律=これらは複雑な戒壇・授戒がある)による日本信仰の一極支配の終焉を意味した(p87、97)
・本地垂迹説とは、仏・菩薩を「本地」、日本の神々を「垂迹」とし、本地である仏・菩薩は日本人を救うために、この日本にやってきて日本の神々に変身(垂迹)した、と説く考えである、一部の日本の神々を菩薩の名前で呼ぶことから始まった(p118、119)
・神宮寺は、神社のなかに寺が付属施設として建てられていたが、宮寺は、神社と寺院が融合した特殊な存在である。仏教と神道はここで一体化した(p120)本地垂迹と神仏習合は、日本の精神と思想の奥深さを示した思想史上の傑作である(p122)
・吉田神道の出現をもって仏教との従属関係を逆転させ、日本の神道として自らの地位を確立した(p129)
・家康が推し進めた仏教対策として、寺請精度(檀家制度)がある。住居移転や結婚、旅行において檀那寺から発行される寺証文が必要とされたので、役所のような働きをした、さらには葬式仏教としての役割も果たした、政治的経済的にも安泰となった日本の仏教は思想史の主役から降りることになった(p136、138)
・幕末明治期の日本人が直面した状況は、飛鳥時代の大和朝廷とほぼ同じであった(p253)