・関が原までの徳川家において、事業創造の権限はトップである徳川家康の専管事項であった、豊臣方では中堅の事務官僚(石田三成)が何をするかを決め、トップを載せて動かすという、特殊日本型の事業創造の原型を考え出した、石田三成は完成はできなかったが創造は成功させた(p7)
・徳川家康は、自ら育てた優良企業を豊臣会社と合併し、代わりに豊臣会社の株の何割かを得た実力派の副社長、石田三成は、社員持株制で数パーセントの名義を与えられている、企画部長兼社長室長に例えられる(p10)
・徳川家康:関東8カ国255。7万石、内大臣の官位、五大老筆頭(p21)
・前田利家:加賀大納言、加賀・能登に越中一部を加えた83.5万石(p23)
・宇喜多秀家:備前中納言、備前・美作57.4万石、毛利輝元:安芸中納言、中国地方の大半の120.5万石(p24)
・上杉景勝:131.8万石、佐渡1国に加えて、出羽4郡、会津4郡、仙道7郡(p26、51)
・文禄年間(1592-96年)は、50万石以上の大大名が10以上、4家は100万石以上、豊臣家自体の所領が240万石(全国に散在するものを統一して)である、更に8割までが代官に任されている(p35)
・秀吉が太政大臣になったとき、弟の秀長は大和を中心に100万石を得た、彼が秀吉晩年(慶長3年)まで生きていたら150万石にはなっていただろう(p39)
・蒲生氏郷は、秀吉が徳川を東海地方から関東へ移封させると同時に、91.7万石を会津に与えた(p41)
・秀吉は、秀次に対して、尾張・北伊勢で100万石の所領を与えて、権大納言・関白の地位を与えた(p41)
・4万石の大名であれば、士分だけで300人、足軽・小者まで含めると1200人を配下に持っていた(p46)
・上杉景勝の家老である直江兼続は、25万石の大禄を得て、従五位下山城守という中堅大名並みの待遇を受けていた(p49)
・豊臣家内の対立は、武断派vs文治派、北の政所派vs淀君派等に分裂した(p64)
・小早川秀秋の所領(筑前1国、筑後2郡の合計52万石)は、晩年の秀吉により、越前18万石へ移封(1598年4月)、変わりに石田三成に与えようとしていた(p69)
・徳川が関東から上方へ攻めあがる場合の進軍路には、豊臣方の武将が並んでいる、駿河府中には中村一氏、浜松の堀尾吉晴、尾張・清洲に福島正則、信州小諸に仙石秀久、徳川の背後には、上杉と佐竹氏(p72)
・太閤秀吉は検地のたびに、各地に蔵入地(豊臣家の直轄地)を設けた、それに文句を言わなかったのは、検地によって所領からの収入が2倍以上に増加したから(p92)
・島津藩は、検地までは21.5万石とされていたが、検地により57.9万石と判明(3倍増)、それにより、地侍(豪族)は寺社が勝手に徴収していた年貢が一切廃止され、領主から知行や扶持米をもらう家臣団に組み込まれた、土地開発の成果が領主のもとに統括される新体制が確立した(p92)
・豊臣家を豊かにしていたのは、家臣団が少なく固定費が少ない、京・大阪・堺・博多に矢銭(軍資金)、冥加金(強制寄付)を要求していた、統一政権による商圏拡大と治安安定による利益を考えれば払う側も納得した、金貨銀貨の鋳造権は豊臣家が掌握(p93)
・当時の鉄砲生産は、堺(三成の兄が堺奉行):6割強、近江国友村(石田三成の出身):3割弱、全体の9割を抑えていた、この両者を石田三成は抑えていた(p177)
・伊達政宗:奥州58万石(p199)
・朝鮮出兵は、5万余の将兵が異国で倒れたが、大名級の戦死者は殆どいない、死者の大部分は飢えと寒さでの病死者、総大将の大名だけはいかなる場合も生きて逃がすというこの時代の武士の職業倫理と社会慣習がある(p209)
・李舜臣と島津・小西勢による最後の戦いにて、島津軍はついに敵将・李舜臣を戦死させる、これにより朝鮮軍は戦意を失った(p240)
・戦後に従一位を贈られたのは、吉田茂・佐藤栄作のみであり、北の政所が従一位を与えられたことは特筆すべきこと(p249)