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戦後史の正体 1945-2012 (「戦後再発見」双書 1)

戦後史の正体 1945-2012 (「戦後再発見」双書 1)の写真

・日本の外交におけるもっとも重要な課題は、つねに存在する米国からの圧力に対して、「自主」路線と「対米追随」路線のあいだでどのような選択をするかというもの(p6)

・自主を選択した多くの政治家や官僚は排斥されている、重光葵・芦田均・鳩山一郎・石橋湛山・田中角栄・細川護煕・鳩山由紀夫、竹下登・福田康夫もそれに入るだろう(p9,84)

・昭和天皇は、沖縄の軍事占領を無期限で継続してほしいと米国に伝えた(p14、87)

・日本人は8月15日を終戦の日と認識しているが、一般には9月2日の降伏調印式を「対日戦争勝利の日」としている(p19)

・降伏文書には、「日本はすべての官庁および軍は降伏を実施するため、連合国最高司令官の出す布告、命令、指示を守る」と書かれている、より具体的には、1)公用語を英語、2)米軍に対する違反は軍事裁判で処分、3)通貨を米軍の軍票とする、が最初の布告案だった(p27、30)

・1946.1には約6000人、1947.1-1948.8までに約19万人が追放された、その後公職追放令は緩められ、25万人以上の追放解除となった(p43、113)

・日本への占領政策が変わったのは、冷戦が始まって日本をソ連との戦争に利用しようと考えるようになったから、これによりマッカーサーとトルーマン大統領が対立してマッカーサーは解任された(p46、98)

・占領時代に日本政府は米軍駐留経費(名目は終戦処理費)は、当初三年間は一般会計の2-3割にものぼる(p63)

・1945.10には、GHQ自身が東京の三井信託の地下倉庫からダイヤモンドを、16万カラット接収した(p85)

・1980-88年まで続いたイラン・イラク戦争では、米国はサダムフセインを支援した、その後イラクは1990.8にクウェートを攻撃した(p102)

・講和条約はオペラハウスで行われたが、日米安保条約は陸軍6軍の基地のなかの下士官クラブで調印された(p117)

・言論統制を行うのに高度な教育のある日本人5000人を雇用した、預金封鎖の中、月に500円しか引き出せない中で、900-1200円の高給が払われた、彼等は大学教授や大新聞の記者である(p128)

・マッカーサーの後をついだダレスは、対日講和条約を締結するにあたって、1)日本を早期に独立させる、2)経済力をつけて共産主義の防波堤にする、3)日本の基地は自由に使う、という基本方針とした(p141)

・北方領土の国後、択捉島は、第二次世界大戦末期に米国がソ連に対して、対日戦争に参加してもらう代償として与えた領土、冷戦勃発後は反対して、問題解決をできないようにしている(p169)

・英国がインドから撤退するときは、パキスタンとの間にカシミール紛争、アラブ首長国から撤退するときは、首長国同士で争うにように飛び地をつくったり、境界を複雑にした(p172)

・ニクソンショックでドルと金の交換停止と同時に、10%の貿易課徴金を課した、これにより為替レートが360→308円となり日本の製品は12%高くなって、その課徴金は取りやめになった(p253)

・湾岸戦争でクウェートが有力紙に掲載した感謝広告に日本が載っていなかったが、あれは現地が政府の指示なしでやったものであった、戦後発行した解放記念切手シートには日の丸が入り、戦争記念館には日本国旗が掲載され特設パネルも展示(p318)

・日本政府がファニーメイを救済することを拒否するため、さらに自衛隊の海外派遣を拒否するために、自分のクビをかけた(p353)