・勝負に絶対などない、が、見切った上で勝つを思えた相手なら、まず九分で勝ちを収めることができる(p19)
・中世から近世初期にかけて、剣客は良くて芸者、悪ければ単なる殺人鬼としてしか見られていなかった(p23)
・己にとって本当に大事なことは、人に聞いたくらいでは分かるものではない。懸命に考えて、初めて自分なりのものが見えてくる。それも最初の一歩のみ、そして初めて次に二歩目が見える(p35)
・素襖とは、戦国時代において、無位の武士の礼服に相当する(p53)
・人間は、どんな状態にでも、時間さえ経てば慣れていくもの(p85)
・米十俵は、500升=5000合、銭10貫=10000匁(p118)
・人とは所詮、自分の得手とすることを通じてしか、賢くなれない、また慶びもない(p161)
・3つのサイコロの賭けは、親と子を入れ替えることに応じる場合には、出る方に賭けるか、出ない方に賭けるは、自分でできるようにする(p170)
・美濃の国55万石(斉藤氏)の西には、西美濃(15万石)三人衆と言われる、安藤・氏家・稲葉氏がいた(p191)
・足利義輝は、松永弾正に襲われて討死したとき、一人で十数人をなで斬りにした、天上人と名のつく者で、これだけの敵をなで斬りにした人間は日本史上にいない(p195)
・その時代の必然を、倫理・観念・一時の結果論で測っては判断を誤る(p198,204)
・明智光秀は、織田家に仕えるや数年で5万貫(約10万石)、最終的には直轄領で50万石、与力大名をあわせれば 240万石となり「近畿管領」と呼ばれるまでになる(p215)
・織田信長は永禄10年には斉藤龍興を破り、尾張・美濃併せて 110万石の大名となった(p238)
・4つの椀の賭けでは、最初に賭けた椀があたるのは、もともと4分の1、空いた二つの椀が空な事実を含めれば、当然、残る1つの椀が当たる確率は4分の3、よってもう一つの椀に変えた方が、7割5分にて当たりをひくことになる(p351)
・人は死ぬと「字」ではなく、初めてその本名である「諱:いみな」で呼ばれる(p358)
・光秀軍の中核が、ほぼ明智系美濃源氏の郎党で占められていた血族連盟であった、寄せ集めの軍団であっても、桔梗紋の一軍だけは傑出した強さを見せた(p364)
・手勢3000を率いて敵陣に突入して、信長自身が右大腿に銃弾を受けてもひるまず光秀を救い出したのが、石山本願寺との天王寺砦の戦い、信長が寡兵をもって大軍に立ち向かったのは、桶狭間以降では、この戦いのみ(p369)
・一色氏の攻略が難しいことを知った光秀と藤孝は、自分の娘を一色義定にやって、その酒宴の席で、嫡男の細川忠興に舅である義定を惨殺した(p386)
・光秀は、独裁者(信長)が君臨する未来を待つより、たとえ勝算が低くとも本能寺を襲う賭けにでた(p396)
・信長が足利義昭を京から追い出したのち、細川藤孝は、光秀の与力大名として織田家に迎い入れられ、光秀に仕えた。かつての主人が、その中間に仕えることになった(p403)