・兵法者が合戦に出て目覚ましい功名を上げたという話はきかない、集団戦の中で甲冑を身に付けた相手をなで斬りに切っていく技など、兵法には無い。ようは、刀術と戦場での槍働きは、まったく別ものである(p26)
・己にとって本当に大事なことは、人に聞いたくらいで分かるものではない、懸命に考えて初めて自分なりのものが見えてくる。それも最初は一歩だけ(p40)
・人は、その生まれ落ちた立場を忘れては、一日たりとも生きられない、育まれてきた意識が、そして過去の記憶が人間を形作っていく。つまり現在の自分とは、その過去の集積の結果に他ならない(p73)
・聖(ひじり)とは、古来は学徳を積んだ僧への敬称であったが、時代を経るにつれて、聖本来の品格も地に落ちて、正規の僧侶でない者、あるいは乞食同然の遊行者を指す蔑称となっていた(p117)
・実力の伯仲した者同士が一合、二合と切り結べば、どんな名刀でもたちまち刃先は毀れてしまい、廃棄するか小柄に打ち直すしかない(p127)
・美濃の土岐氏、あるいは甲斐の武田氏と同様、鎌倉幕府創建以来、代々続いた名門守護大名である(p219)
・明智光秀は、織田家に仕えるや否やわずか数年で5万貫(約10万石)の領主となり、直轄領で50万石、与力大名をあわせれば、京都を含めた近畿で5か国240万石を支配し、近畿管領ともいわれるまで出世した(p236、391)
・織田信長は、永禄9年には西美濃一帯を手中に収めて、翌年には、美濃国主の斎藤龍興を破り、尾張・美濃2か国の太守となる、110万石である(p262)
・信長の正妻帰蝶の生母である、小見の方は明智城城主の光継の娘、この長子が光綱、これが光秀の実父である。光秀と信長の正室は、祖父母を同じくする従妹同士となる(p269)
・美濃稲葉山の陥落を受け、朝倉義景のもとには斎藤龍興が流れてきた、明智一族を滅ぼした斎藤家と光秀は一緒にいたくなかったのであろう(p282)
・光秀思うに、人間が持って生まれた本来の能力に、たいした違いはない、それを本人たちがある目的意識に向かってひたすら磨き、鍛錬していくからこそ能力が初めて他を圧倒する才能を産み落とす(p286)
・本圀(ほんこく)寺の変にて足利義昭を襲撃してきた三好の軍を撃退し、光秀は信長の信任が厚くなる。越前、近江の戦いでも活躍し、2年間で近江10万国(もともと比叡山の所領)を与えられ、坂本に城を築いた。古参の同僚をまたまくまに抜き、初の国持ち大名となった(p390)
・光秀軍の中核は、ほぼ明智系美濃源氏の郎党で占められていた血族の連盟である(p399)
・信長が寡兵をもって大軍に立ち向かったのは、桶狭間の戦い以降では、石山本願寺との天王寺砦の戦いのみ(p404)
・仕事ができる能力と、それを絶え間なく受け入れることのできる度量は、また別の問題である(p417)
・丹波は、福知山周辺以外は、深い山塊に覆われている、平安鎌倉以来の古い土豪が無数に住み着いている、それを光秀は平定した(p421)