・約束を守る、モノを盗まない、人を殺さない、特に「信じている神様が違うからといって人を殺さない」、この道に背いたらその人にはいずれ天罰が下る、という考え方が「天道思想」である(p26)
・室町時代の末期から安土桃山時代にかけて出された「撰銭令」の背景は、全国各地で独自基準の撰銭が頻繁に行われていた、関所が多くあり、枡の大きさが異なったりしていた、これを許していたのが足利将軍、大名から見ればその権威を認めることで、領地支配の大義名分を得て治外法権を得られる制度であった(’p35)
・信長は検地によって領地を石高で表すことで、先祖伝来の地という考え方に風穴をあけた、領地のデジタル化を行い、これにより大名を移動させることが可能になった(p37)
・貨幣と呼べる国産貨幣は1588年、秀吉の天正菱大判からであるが、流通の観点から言えば、1601年からの慶長小判であろう(p64)
・注意すべきは貨幣量を100倍にすれば、たちどころに生産量が増えるわけではない、貨幣量の増加が引き出すのはあくまでも埋もれていた潜在的な経済成長の力であって、じわじわとした変化である(p66)
・現在の国の純債務は100兆円(債務総額は1000兆円)GDP は500兆円なので、純債務のレベルは決して高くない(p74)
・日本のバブル景気は1989年の日銀金融引き締めで終止符が打たれたが、1991年にはバブルを象徴するディスコ=ジュリアナ東京がオープン、この年から銀行は不動産業者の延命をやめた、人々がバブル崩壊を実感したのは、1998年の長銀、拓銀、山一の破たんした1989年頃から(p76)
・朝貢貿易は、偉大なる明朝の皇帝陛下が下々の国にお恵み下さる、という建前なので5倍返しは当たり前であった、そういう条件ならと多くの国が明との貿易を始める、その一人が足利義満であった(p80)
・16世紀前半において日本国内の銀は贈答用の貴金属としては使われても、貨幣としてはあまり使われなかった、銅銭メインの貨幣制度であった、しかし支那に銀を持っていけば、生糸や陶磁器と交換可能であった、銀の価値は日本の約1.5倍であった(p86)
・信長は、撰銭令の補足として、同年3月(1569)に発した「精撰追加条々」において、米の貨幣的取り扱いの禁止、高価商品における金銀使用を命じている、しかし秀吉は、年貢や少額貨幣には、米を「物品貨幣」として使うことを容認した(p98、114)
・主な為替レートは、金1枚(10両)=永楽銭20貫文、永楽銭1文=悪銭3文、というもの。これはビットコインのマイニングと同じインセンティブ体系である(p102、109)
・石高制には、米という物品貨幣による納税を認めた結果、税収は米価の変動に大きな影響を受けることになった、だた秀吉の時代にはまだ貧しく、米は誰もが必ず欲しがる食料であったので、問題は顕在化しなかった(p121)
・秀吉は、城割・検地・刀狩、を行うことで、鉢植え大名化・兵農分離・あらゆる中世的なビジネスモデルの殲滅を行った。標的となったのは、土豪(職業的な武士として城下町に住むか農民になるか)・海賊(賊船禁止令)・寺社など、特定の地域を仕切っていた既得権者であった(p126、144)
・秀吉は京都から大阪への遷都を計画していた、本願寺だけでなく、京都五山や朝廷まで大阪に移転させるつもりであった、本願寺のみがこれに従った(p167)
・プロダクトアウトの反対は「マーケットイン」である、マーケットのニーズを優先してそれを実現していくために商品開発や生産を行う、顧客優先で「顧客が望むものを作れば売れる」(p194)
・シーパワーを得るためには、その国の「地理的位置」「自然的構成」「国土の広さ」「人口の多少」「国民の資質」「政府の性質」が必要である(p196)
・秀吉は全国各地に蔵入地(政権の直轄地)を設定した、大名領の内部に設けられ「楔」として機能した、これを通じて大名経済をコントロールした(p207)
・欧米列強は、日本と不平等条約を結ぶことはあっても領土は占領しなかった、それだけ陸地の占領にはコストがかかる(p225)
・今のように技術進歩が速く、経済の情勢もめまぐるしく変わる時代は、ひとつの勝ちパターンで勝てる期間も短くなっている(p246)