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summary

なぜヒトラーはノーベル平和賞候補になったのか

なぜヒトラーはノーベル平和賞候補になったのかの写真

・第一次世界大戦においてドイツが休戦に応じたのは、ウィルソン大統領が、「領土もそのまま、賠償金も課さない、報復もしない、なので戦争をやめましょう」と言ったから、同年11月に連合国とドイツとの間で交わされた休戦条約でも、ドイツが負担するのは「損害の補償」であった(p19)

・ウィルソン大統領は、敗戦国から略奪してはならない、とは語ったが、英仏の(米国への借金の)負担を減らしてくれなかった(p21)

・ルール地方の占領は、フランス・ベルギーにより行われた、イギリスからも抗議があった、ドイツ側は武力による抵抗の代わりに、サボタージュによる抵抗を呼びかけたので、石炭採掘はストップ、フランス軍は占領費ばかりかかった。このときドイツ軍の多くは再軍備の必要性を感じた(p28)

・ヒトラーは軍の命令で「ドイツ労働者党」に潜り込み情報収集をしていたが、感銘を受けて入党してしまった、この党がナチスの元となる組織である(p33)

・賠償支払いの総額、支払い期間を決める会議が1929年に開かれ、ヤング案が決定された。賠償金の額が当初の3分の1となったが、トランスファー保護規定(連合国側がマルクが暴落しないように調整する)が廃止され、相手国の外貨で払わなくてはならなくなった、ドイツがマルクの価値を維持するのをすべて請け負うのは酷であった(p39)

・ヤング案実行の後、ドイツは深刻な不況に陥り、650万人の失業者がでた、このなかで成長してきたのがナチス(ドイツ国家社会主義労働者党)である(p44)

・ヒトラーは1933年に政権の座についてから3年間で失業者を100万人にまで減少させ、恐慌以前のドイツ経済を回復し、以前の最高の1928年を15%上回っている(p52)

・アウトバーン建設において、建設費のうちの45%が労働者賃金に充てられた、ナチスの作った労働戦線という組合が企業を監視していたので、企業のピンハネは不可能であった(p59)

・1938年にヒトラーはヨーロッパに平和をもたらしたとして、世界中から賞賛されていたので、1939年、ノーベル平和賞にノミネートされた(p63)

・ドイツは、ポーランド回廊の割譲を求めたが、ポーランドは拒否した。1939年9月にポーランド侵攻をしたので、協定を結んでいた英仏はドイツに宣戦布告となり、第二次世界大戦は始まった(p73)

・日本政府は為替を放任していたので急激な円安が進み(3年で半値)その円安を背景に集中豪雨的に輸出を行い、インド、東南アジア、オーストラリア等の欧米植民地国に対して輸出を伸ばした(p81)

・イギリスはイギリス領、イギリス植民地、イギリス属国(日本の提案)以外にも、輸出規制をすべきだとした(p88)

・国際連盟では、違反国に対して「経済制裁」をできるという条文があるが、先手を打つ形で国際連盟を脱退した。連盟内の諸団体には留まっていた(p94)

・満州事変に対して国民から慰問金が寄せられたのは、感謝の意を表したいから。満州事変に対して国民は熱狂していた(p121)

・戦前の日本には都市部の多くに貧民街があった、深川・浅草・芝・小石川・下谷・京橋・麻布・牛込・本郷・四谷・神田・赤坂(p128)

・戦前は4大財閥(三井、三菱、住友、安田)で払込資本金の50%近くあった(p128)

・金本位制をとる国は、金の流入に合わせて通貨量をふやして、お互いの通貨を安定させていたがアメリカがこのルールを破った。なのでアメリカの金保有量は4割から7割になった(p140)

・1930年6月アメリカは、スムート・ホーリー法を成立させ、アンリかの輸入に対して約2万品目の関税を引き上げる、これほど強烈な保護貿易政策は初めて(p145)

・1940年、ルーズベルト大統領は、「駆逐艦・基地協定」を結んだ、99年間アメリカはイギリス軍基地を使用する代わりに、50隻の駆逐艦を供与するもの(p153)

・在米資産凍結のため、横浜正金銀行ニューヨーク支店が全く機能しなくなった、これにより中立国から間接的にアメリカ物品を輸入できなくなった、これにより日本はアメリカとの開戦を決意した(p158,160,164)

・フォード社は大正14年、現地法人会社をつくり製造販売を開始、昭和2年にはGMも上陸し、ノックダウン式による大量生産を開始し、この2社で市場を占められた、普通自動車の日本メーカによる生産は当時ゼロ、トラックや小型自動車のみ(p177)

・昭和11年(1936)に、自動車製造事業法が作られ、日本国に籍のある会社が生産を認められた。既存外国企業は、製造継続は認められたが工場拡張はできなかった(p178)

・イギリス軍の降伏(シンガポールで8万人、マレーで5万人のイギリス軍の捕虜)は、初めての屈辱であった(p198)