suu3.jp 戻る

summary

覇権の流れがわかる!海洋の地政学 (PHP文庫)

覇権の流れがわかる!海洋の地政学 (PHP文庫)の写真

・ペルシア帝国は「イラン高原」ローマ帝国は「地中海」イスラム帝国は「アラビア半島」というように、交通地域から大勢力が入れ替わりに台頭する、いずれの帝国もエジプトとメソポタミアの生産地域の支配が中心であった、その周辺が交通地域とされた(p31)

・19世紀後半から20世紀初めにかけて、ハートランドのロシアがユーラシア各地に南下を進めると、東欧・オスマン帝国・アフガニスタン・東トルキスタン、朝鮮半島などが緩衝地帯になった、その前は東南アジアであった。イギリスと日本は、ロシアが朝鮮半島を南下したときに、朝鮮半島をロシアに対する緩衝地帯と位置付けた(p45)第二次世界大戦後も、ランドパワーとシーパワーの接点には、緩衝地帯が設けられた。東西に分断されたドイツ、南北に分断された朝鮮半島、ベトナム戦争の場となったインドシナ半島、西欧がロシア、東欧と東欧と対峙するための、トルコ・ギリシアなどが代表的な緩衝地帯となる(p46)

・19世紀のイギリスの覇権、20、21世紀のアメリカの覇権は、重要なチョークポイント(イギリス海峡、ジブラルタル海峡、バルエルマンデブ海峡、ホルムズ海峡、マラッカ海峡、バシー海峡、台湾海峡、ボスポラス海峡、人工的なポイントとして、スエズ運河、キール運河、パナマ運河など)を支配し、空母を中心とする海軍を持ち基地を持っている(p53)

・日本周辺のチョークポイントは、対馬海峡・大隈海峡(東シナ海と太平洋)・宮古海峡・津軽海峡・宗谷海峡・択捉海峡があるが、現在問題になっているのは、中国海軍が太平洋に出るために利用する沖縄本島と宮古島の間の宮古海峡、東シナ海と日本海の間の対馬海峡である(p56)

・カルタゴを中心とするフェニキア人の交易ネットワーク(地中海の島々と港を結ぶ)は、変形しながら、ビザンツ帝国、イスラム帝国、イタリア諸都市に引き継がれていった(p72)

・ボスポラス海峡は、狭くうねうねと続き、航海が難しい航路で船は様子見を強いられた、風待ち場として前7世紀に建てられた港町が、ビザンティオン(現在のイスタンブール)であった(p81)

・ローマ帝国が非征服民にも市民権を与えて開放的であったのに対し、アテネは部族的で、父母がアテネ人でなければ市民権を与えなかった、閉鎖的社会は、ムラ社会、コネ社会になりやすく、前例・慣例が邪魔をしてアテネは帝国に成長できなかった(p89)

・アレクサンドロス3世(大王)の東方遠征軍の勝因は、騎馬隊と長い槍を持つ歩兵の密集軍団が、二輪車によるペルシア帝国の古い軍隊よりも優れていたという分かりやすい要因であった(p95)前331年、アレクサンドリアを建設し、ペルシア帝国とフェニキア商人が支配してきたエジプトの穀物をギリシア人が支配することになった(p97)

・ポエニ戦争はランドバワーのローマと、シーパワーのカルタゴが長期にわたって大戦争をしたもの、その理由は、第二のシーパワーのギリシア人がローマと同盟関係にあったこと、カルタゴが支配する東西の地中海を結ぶチョークポイントが、地中海の戦略的支配にとって重要であったから。(p101)

・2世紀には帝都ローマでは、15-17.5万の所帯、人家族3−5人として40-70万人が穀物を国家から無料給付されていた、つまり市民の3分の1ないし半分が働かず、帝国に養われていた。市民が口にする食糧の4ヶ月分はエジプトからもたらされた、各地に派遣された軍団が武力で食糧の確保に当たっていた、ローマ帝国の分裂は必然性を持っていた(p104)

・ローマとイタリア半島が疫病の巣窟になると、多くのローマ市民は疫病から逃れようとローマ、イタリア半島を離れ、地中海の周辺各地に移住した。そうしたローマ帝国の変化に対応するために、212年カラカラ帝は、ローマ以外の属州の自由民にも市民権を与える措置に踏み切る、ローマから市民が属州に移住したことへの対応措置であった、これは見方を変えるとローマが地中海を中心とするシーパワーに転換できるチャンスであったが、簡単には変えられなかった。利害が絡む構造改革は難しい(p106)

・中国の南の沿海地域や長江流域は長い間「蛮夷の地」として扱われ、魏・晋・南北朝の後の、隋・唐帝国の時代に中国に組み込まれた、南の福建、広東が中国に組み込まれるのは、唐代末期である。標準語である北京語と、上海語、福建語、広東語の発音が異なっているのはそのためである。長い間、中国の歴史は実質的に華北の歴史であった。589年に、遊牧民と農業民が混ざり合った黄河中流域と農業民の超高流域を1つにした隋は、大運河を建設、内陸の大水路により「南船北馬」の北と南の異質な世界を一体化した(p121)

・543年、ビザンツ帝国の首都コンスタンチノープル(現イスタンブール)で突発できに起こったペストの大流行は、時の皇帝の名前をとって「ユスティニアヌスの疫病」と呼ばれている、1年間でコンスタンティノープルの人口の4割程度を至らしめた、大流行は3年で収束したが、その後も5ー10年周期で約60年間続いた(p129)しかし砂漠が広がり、大都市がないアラビア半島はペストの影響をほとんど受けなかった、イスラム帝国が形成された、古代の地中海世界は、イスラムの世界と北のキリスト教世界に分裂していった(p131)8世紀中頃以降、約500年続いたインド洋を中心とする海の商業の繁栄が、ペストの大流行で脆くも崩れ去った(p147)

・第4回十字軍(1202-04)が、コンスタンチノープルを陥落させた後、東地中海に進出したジェノバは陸路、ベネツィアはエジプトのアレクサンドリアを介してモンゴル帝国のアジア商圏をと結びついた、その結果、イタリアに莫大な富が流入して、ルネサンスの経済基盤となり、中国の技術(羅針盤、火薬、活版印刷術など)が欧州に伝えられた(p143)

・845年バイキング船が蛇行するセーヌがわを遡ってパリを攻めると、シャルル2世は彼らに贈り物を与えて退去させた、これに味を占めたバイキングは886年までの40年間に4回もパリに押しかけて贈り物を求めたので、西フランク王シャルル3世は、ノルマンディ地方を、ノルウェー系バイキングの首長ロロの居住地域とし、ノルマンディ公国として与えた(p165)

・ロンドン塔は島民を統治するための拠点として、1100年頃から建設された要塞、王の居城であった。百年戦争でイギリスとフランスが別々の国になるまでは、イギリスの公用語はフランス語だった(p166)

・200年にわたる、キプチャク・ハーン国の支配から独立したロシアは、モンゴル帝国の後継国家となった、ロシアを回復したイヴァン3世は、1453年に滅亡したビザンツ帝国の最後の皇帝の姪と結婚し、「ツァーリ(皇帝)」の称号と引き継いだ(p178)

・ラッコの毛皮は当時世界最高の毛皮で高く売れた、17世紀には数十万頭いた北太平洋のラッコが取れなくなり不要となったラッコの猟場アラスカは、南北戦争後にアメリカに安く売却され、いらなくなった千島列島も、樺太・千島交換条約(1875)により、樺太の居住権と交換に日本に譲り渡された(p182)

・オスマン帝国は地の利を生かして商業圏を拡大したために、ベネチア、ジェノバは地中海交易から大きく交代せざるを得なかった、そこで大西洋での市場開発が目指されることになる。ジェノバの商人はポルトガル交易港リスボンに居留地を設け、そこを拠点にフランドル地方との交易、大西洋上の島々での砂糖の生産、航路の開発に乗り出した。コロンブスもリスボンで活動したジェノバ人である(p191)

・帆船にとって風向きとその季節的変化を知ることが重要で、緯度によりコロナるそれぞれの海域の風が解き明かされる必要があった、海の風の規則性を発見したことにより、今までパッとしなかったヨーロッパは、歴史を逆転させるチャンスを手に入れた(p193)

・ジブラルタル海峡の対岸にあるモロッコのセウタは、ジブラルタル海峡を制するためだけでなく、サハラ砂漠を縦断して行われた黄金貿易の中継都市でもあった、ポルトガルは莫大な費用を払って何度もセウタを支配しようとして失敗、1578年には国王セバスチャン1世が国家歳入の半分を費やして、自ら2万人の軍を率いてモロッコに侵入したもの惨敗、王以下貴族の大半が死去した。王位継承者がいなくなったポルトガルを、1580年にスペインが併合している。セウタは1668年に正式にスペイン領となり、現在はE Uに属している(p196)

・アフリカでは風土病への免疫を現地人が持ち、ヨーロッパ人は持っていないという、ラテンアメリカとは真逆の状況があった、そのためにヨーロッパ人は、アフリカ分割(1880ー90年代)までは、アフリカ沿岸部の10%くらいの地域しか進出できなかった(p198)

・1580年ポルトガル王室がスペインに併合されると、世界の海は全てスペインの領土ということになった、そこで17世紀以降、公海における航行の自由を主張するオランダ、イギリスは実際の行動によりスペインの海の独占支配を打ち破らなければならなかった(p208)

・バスコダ・ガマの船団は、オスマン帝国が支配する海域を避けて、直接インドに行くルートの開拓に成功した、船団がカリカットから運んできた胡椒は、約60倍もの利益を王室にもたらせた(p220)

・国内に輸出する特別な商品を持たないポルトガルは香辛料などを欧州市場で売って銀を購入、それでアジアの物品を購入するという中継貿易が基本形となった、現地の事情をよく知っているポルトガル商人が現地人と結んで地域間の交易を組織した、そのためにスペインが新大陸の安い銀を直接、東アジアにもたらすようになると、スペインの銀を利用することで回っていたポルトガルの交易は困難な状況になった、ポルトガル海洋帝国は19世紀にイギリスに引き継がれていく(p227)アジアのポルトガル領土がオランダ、イギリスに奪われた後も、ポルトガル商人のネットワークは行き続けた(p228)

・当時は海難事故が当たり前だったので、海の事業は一航海ごとに解散し、利益が分配される方式(イギリス東インド会社方式)が一般的であった、しかし連邦制をとっているオランダでは、造船・軍事・植民地支配などを会社が肩代わりせざるをえず、永続的な会社組織が必要になった、そこで出資金が棄損される可能性が高い株主にたしして高い配当を出したのである、1621年に設立された西インド会社は、アメリカ大陸の貿易を独占した(p235)

・偏西風の吹き荒れる海でニシン漁を行っていたオランダ人は、海の世界の猛者であった、オランダ船は喜望峰にまで直航し、そこから吠える40度おと言われる荒れる偏西風海域を突っ切ってジャワ島に直航するルートを開発した、それはポルトガル船がそれを避けてモザンビーク海峡に向けて北上したものとは異なっていた。1609年、オランダは、当時ポルトガルを併合していたスペインから、インド・東南アジアでの自由貿易の権利を獲得、後には、モルッカ諸島(丁字、肉ずくという貴重な香料を産出)の割合を、オランダが3分の2、イギリスを3分の1と分け合う協定を結んだ、1623年には独占した(アンボン島事件)さらには、台湾海峡を抑えて対日貿易を独占(1641年、オランダ東インド会社)した、その後には、マラッカや南アフリカ(ケープ植民地)を奪った、アフリカを迂回、台湾海峡を経由、日本に至る貿易ルートを築き上げた(p240)

・江戸時代に日本経済が一つに結びつけられたのは主に海路であり、山と盆地の多い陸上の五街道による輸送の成長はだいぶ遅れた、関東の「くだらない:は、上方(関西)から船で運ばれてきたのではない=地場産のモノという意味(p254)

・イギリスに敗れ続けてきた欧州諸国が、今度はバランスオブパワーに基づき、一致団結してアメリカ独立戦争に介入した、フランス・オランダ・スペインが植民地支援の軍隊を派遣、ロシア・ポルトガルは武装中立同盟を結成し、戦争物資を植民地に供給した。その結果はイギリスは植民地を失い、アメリカ合衆国の成立となる。それ以降は、オフショア・バランシング=外交・同盟政策によって最も有力になった国を叩き潰す方法に転じた(p272)

・戦争中にリンカーン大統領が西部諸州を味方につけるために出した、西部開拓に5年間従事した21歳以上の者に、約20万坪の土地を無償で与えるというホームステッド法(自衛農地法)が、戦後・大不況という長期の不景気に悩むイギリス・ドイツからの大量移民を呼び寄せることになった(p313)