・50代桓武天皇が奈良から京都へ都を遷した理由として、1)奈良において大きな勢力を持つようになった仏教勢力を排除し新たな政治を行う、2)藤原京や平城京は、壬申の乱に勝利した40代桓武天皇系によって造営された、敗れた側の38代天智天皇系の桓武天皇は、天武天皇系の勢力が多い奈良から離れようとした、3)藤原家をはじめとする奈良を本拠とした在来貴族の影響力を減少させるため(p18)
・京都盆地南部には、昭和初期まで巨椋池があり、琵琶湖へ繋がる、宇治川、河内湾へ繋がる桂川、旧都・奈良へ繋がる木津川が合流していて、太平洋側。日本海側、旧都の全てを網羅する水上交通の中心地であった。そのため桓武天皇はこの巨椋池近くの長岡京を造営した。ところがこの三つの河川が合流する地は水害の多発地帯であった、長岡京が廃墟になった理由の一つに怨霊による疫病や災害が挙げられるが、水はけの悪いこの地は都に適しなかった、この3キロ北に良質の井戸水が採取でき、水はけの良い扇状地が広がっており、そこが平安京が造営された地である(p19)
・平安京は風水で平安をもたらす最高の地とされた「四神相応」の地である、東の青龍(河川)、西の白虎(道)、南の朱雀(湖や沼)、北の玄武(山や丘)である(p20)
・古墳時代には日本各地で巨大古墳が築かれるようになり、京都府にも約1万基の古墳が存在するが、6割は丹後地方に集中している。古代における先進地域は丹後地方であった(p31)
・現在では映画撮影所として知られる「太秦(うずまさ)」である、財力を宅さえた秦氏は、財政に関する役職につき、また銅工や鋳工の技術者を提供した。21代雄略天皇の時に秦氏は、その功績から「太秦」の姓を賜ったことから地名の由来である(p34)
・平安京は奈良の仏教勢力からの脱却があったので、平安京内にはほとんど寺院が建てられなかったが、数少ない例外が、九条通りと八条通りの間に配置された、東寺と西寺である。東寺は、最新の密教を修めた空海に下賜され、西寺は空海のライバルとされる「守敏」に与えられた。東寺は発展したが、西寺は火災で焼失、何度か再建されるものの、鎌倉時代には廃絶した(p46)右京側にあった西寺は、水害、それによって疫病も蔓延し人々は左京へと移り住んだ(p47)
・全国の末寺の住職が本山である本能寺への参詣を義務付けている、本能寺の末寺がある、種子島・境・備前・三井・越前・備後・駿河といった地域と深いパイプがあった。境と言えば、当時の日本における一大鉄砲生産地である、信長が本能寺を選んだのは、鉄砲における法華経と境商人に注目し、協力体制を築いていたから(p95)
・戦いに強かった光秀が「山崎の戦い」であっけなく敗れたのは、光秀が山崎の地の利を「あえて」利用しなかったから。光秀は五通の禁制を出しているが、いち早くそれを得たのが「山崎の町民」であった。禁制を得るには制札銭と呼ばれる多額の献金が必要になる、山崎の人々は、光秀側だけでなく秀吉側の織田信孝からも得ている、山崎は当時の生活必需品である「油」の権益を掌握していた(p106)光秀は山崎での街合戦を避けて、市街地から3キロ離れた勝竜寺城に陣取った、こうして秀吉軍は無傷で山崎の町を占拠し、天王山に陣を敷いて平野部で両軍は対決した(p107)
・秀吉が大改造した京都は東国の勢力(徳川家康)に対して防備を固めていることがわかる、もう一つ注目すべきポイントは、同じ宗派や協力関係にある宗派をグリープにして集めた、1)鴨川沿いの寺町には、天台宗・真言宗・禅宗、2)寺之内には、寺町と対立した歴史たがある法華経の寺院、3)南には、一向宗の本願寺が新たに創建された(p119)
・京都に家康が幕府を置かなかった理由として、1)平城時代において防御機能が弱い、2)土地の規模を拡大させることが難しい、3)海外の貿易拠点として不向き、家康や浦賀を海外貿易の拠点として開港することを目指していた(p135)
・神仏習合の時代(明治時代まで)は、日本の神々が仮(権)の姿で現れた「権現」として見られることが多かった、日本の神々は本来、仏であるとした。これに対して、吉田兼倶は、日本の神々こそが大元であり、仏は神が仮の姿で現れたものとした、そして、神道を「根」仏教を「果実」として体系化した。吉田神道は日本に混在していた様々な宗教を矛盾なく融合させたことで人々に支持された、徳川幕府は「吉田神社」は浸透本所として全国の神社・神職をその支配下に置くことになり、吉田神道は、神道の本流となった。明治時代には、神祇省が設けられ、神道は国家管理へと移行、吉田神社は江戸時代の権勢を失うことになる(p146)
・鳥羽伏見の戦いでは一進一退の攻防が続いたが、1月5日に新政府軍に複数の錦の御旗が翻った、新政府軍に寝返る藩もでる中で致命的だったのは、京都進軍のための拠点だった「淀城」の淀藩が新政府軍に就いたことであった。兵站基地を旧幕府軍は失った。6日、淀城から5キロ南西にある橋本で新政府軍を迎え撃とうとするが、津藩の寝返りにあい総崩れとなる。結局、全軍が大阪城に撤退することになった。錦の御旗が最も効果を発揮したのは、旧幕府軍の兵站基地である淀城が新政府軍に寝返ったことである(p161)
・実は東京を新たな「都」とする天皇の詔も政府の正式な布告も出されていない、そのため、それまでの都を廃都として都を移す「遷都」ではなく、新たに都となる地を定める「鄭都」(注:本来の漢字は、右側の「おおざと」は無い)であり、名目上、京都を「都」として残したまま、新たな都が定められたことになる(p162)