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summary

徳川家康 弱者の戦略 (文春新書)

徳川家康 弱者の戦略 (文春新書)の写真

・家康は大名をやらされたその運命自体が苦痛だったと思われる、天下取りの意欲を持っていたとは思えない、その理由は、家康が生まれた三河という地が、地政学的に非常に過酷な環境にあったから。いつ滅びてもおかしくないくらい危うい状況に置かれた小国に、家康は生まれたから。天下取りどころか、家の再興、存続を考えるだけで頭が一杯だっただろう(p11)

・三河の場合、日本の陸の潮目に位置していた、日本列島は地質学的に行って、二つの島から出来上がっている。その継ぎ目、裂け目が本州の中央にあるフォッサマグナで、その西縁は糸魚川ー静岡構造線と呼ばれる。これが実は政治文化の上でも、東西の境目になってきました。日本史上、このフォッサマグナあたり、駿河・遠江・三河・尾張のエリアおを境に、大きな衝突が起こり、文化的にも社会的にも東と西が分かれる傾向があった点は重要である(p13)

・ヤマトタケルを最後まで苦しめたのも、この地域であった。野原で火攻めに遭い、草薙の剣で難を逃れたのが静岡の焼津で、それを奉納したのが終わりの熱田神宮である(p14)

・熊野の鈴木というのは、中世、熊野比丘尼と呼ばれた、諸国にいた女性たちを束ねている家が鈴木家であった(p18)

・江戸時代の家来は主君に仕える代わりに俸禄などの報酬をいただくが、中世の主従関係は逆で、家来になる方が上納の財やサービスを持っていくことが多い、サービスして家来扱いしてもらい、権威付けしてもらったり保護を受けたりするのが中世的な被官関係である(p22)

・桶狭間の戦いの目的は、西三河から熱田・半田といった尾張の東南部をとりあえず確保し、信長の居城を囲めば御の字といったところであった、東南部の熱田・半田は水運の拠点であり、織田家の力の源泉となっていたから(p36)

・家康に学ぶべき小国の知恵は、良いと思ったものは敵からでも積極的に学ぶことであった。自軍のアイデンティティというべき主力部隊のコンセプトを敵であった武田からためらうことなく取り入れている(p45)

・秀吉の行った太閤検地により、今川の支配下にあった駿河国(静岡市などの静岡県中部)は約15万石、遠江国(浜松市を含む西部)は25万石であり合わせて40万石、対して尾張国は1国で57万石、三河国は29万石であった(p48)

・桶狭間の戦いの後、家康は岡崎城に入ったという選択は重い決断であった、これは最前線に身を置いて織田勢の攻撃を受け続けることを意味するから、今川から派遣された城番は駿府に引き上げていた(p55)

・尾張と美濃を両方支配できたら、東海道と中山道の両方を押さえられる、さらに近江に進んで領有できれば、京都に入れ天下の権を握れる。信長にとって美濃はまさに「天下への扉」であった(p61)

・家康は権威信仰を捨てて、信長風の「実力を信じる」方向へ傾いていった、家臣たちを信頼し利益を図ってあげると彼らも命懸けで働いてくれる。すると家康の側もさらに家臣たちの忠義に応えようとする。三河武士団にこのサイクルが出来上がった、こういう信頼の互酬関係で結ばれた集団は武士団でも企業でも強い(p65)

・家康の凄さは、信長の失敗、ダメな点を学んだところにある。一言で言えば「信長疲れ」を見破った、秀吉も信長以上に家臣・領民の「秀吉疲れ」を巻き起こす存在であった(p72)信長、秀吉、家康の三者を比較するなら、信長は価値観も含め一元的に服従させる権力、秀吉は全てを飲み込もうとする権力、家康は棲み分ける権力ということになる(p76)

・なぜ中部、南九州、ついで東国に強豪の戦国大名が集中したのか、この地域は京都に近い近畿ほど、お寺・神社や住民自治(惣)の抵抗が強くない。それで年貢や家屋税(棟別銭)が撮りやすい、また土が関係している。黒ボク土という火山性の土壌が分布する地域で、牧畜、馬産に適していて、良い狩場でもある(p81)

・信玄との衝突が不可避と見ると、腹を括って最強軍団・武田を敵に回して、その宿敵・上杉と結んだ。今川氏真や北条氏政が勇断を避けて没落していったのに比べて、家康の外交戦略や果敢かつ大胆なものであった(p95)戦うときに戦わないと求心力が失われ家臣たちの離反が始まる(p105)

・酒井忠次が優れているのは、指示が具体的で的確なこと、人に調査を依頼するとき「様子を見にきてくれ」といった曖昧な言い方では、たいていうまくいかない。これは指示を出す方が悪いのであって、細かいところまで想像力を働かせて「どこで何を確認せよ」といった具体的な命令に落とし込まなければ調査の実は上がらない(p103)

・敵の最強軍団をリクルートしてきて、自軍の中核に据える大胆な軍事改革の人事は家康しかやっていない、家康は外部のものでも本当に優れたものなら、躊躇なく取り入れる革新性を併せ持っていた、これも彼が天下を取れた要因の1つである(p109)

・武田勝頼と信長・家康連合軍との間で血みどろの戦いが継続された、そこで要となったのが3つの城(東から、高天神・二俣・長篠)であった、武田家が西に進出してくる時、ここで押さえなくてはならない地が、この3つの城であった(p114)

・長篠の戦い以後、勝頼の命運を握っていたのが、遠江に残された武田方のクサビ、高天神城(岡部元信城主)であった、徳川方は補給路を遮断し、周りに砦を6つも築いて攻め続けた、これに対して勝頼は武田家当主として援軍を出せずに落城した、この時に勝頼は当主としての政治的生命を失った(p136)

・石川数正を秀吉に取られて、まだ1ヶ月もしないころ、秀吉方から上洛を促す使者がやってくる、その翌日の夜に中部地方に大地震が起きた、これで秀吉が濃尾平野に築いた前線基地は軒並み破壊された、大垣城は崩壊・火災、長浜城も倒壊した、一方家康の領地である三河は大きな被害は受けなかった(p163)

・家康が江戸地方へ転封される前の石高は150万石(6万人派兵可能、実質4万人)であったが、関東8カ国で250万石は家康にとって必要な石高であった。さらに引越し先の関東で家臣たちに与えられる土地は、全て家康のおかげでもらえる土地であり、家臣に対する家康の力はさらに強くなる(p166)

・大御所時代の駿河は、朝鮮・オランダ・イギリス・スペインなどから使者が訪れる外交拠点となった(p185)

・鉄の武士はメッキして金の力(天皇・公家)を借りるのが最強になれる秘訣である、家康はそれを看破していた、弱者・家康が辿り着いた最後の戦略は「文化」の重視であった(p187)儚い個人が夢を求めて闘争を繰り返す戦国時代は、家康によって消去された。家康が掲げた「個人の安心」「家の存続」こそが、まさに天下万民の望むところとなっていった、だから徳川の世は260年も続いた(p190)

2023年3月20日読了