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summary

源氏と平家の誕生 (祥伝社新書)

源氏と平家の誕生 (祥伝社新書)の写真

・原則的に、源性は一世王(子世代)に、平姓は二世王(孫世代)に下賜されていくが例外もある、源性のほうが天皇に近い分、より格上である(p13)

・平氏には、桓武平氏を含めて4流、源氏には、佐賀源氏・清和源氏の他に合計17流ある、源氏には武士だけではなく貴族も多い(p14)

・天皇が皇太子に譲位すれば、前の天皇は上皇、出家すると法皇と呼ばれ、その二つに身分差は無い。上皇・法皇が実権を握る体制を院政、彼等を「治天の君」と呼ぶ(p17)

・保元の乱とは、表向きには源氏と平氏が身内同士で戦っているように見える(平清盛は叔父を、源義朝は父や弟を斬首)が、最大の争点は、院と天皇のどちらが実権を握るかであった(p18、43)

・白河法皇が院政を取り入れて実権を握れたのは、藤原摂関家の影響力が二代続いて外れたことによる(p19)

・平治の乱(11159)では、清和源氏が敗れ、平清盛を筆頭とする伊勢平氏(桓武平氏高望王流)が、武家の棟梁の地位を獲得した(p52、75)

・平清盛は、仁安2(1167)、ついに従一位太政大臣に叙せられ、受領11か国、知行国は5か国になった(p58)

・1180(治承4)6月に、平清盛は摂津福原(神戸市兵庫区)に遷都を敢行し、後白河法皇・高倉上皇・安徳天皇を移したが、延暦寺が抗議する等があり、安徳天皇は11月には遷都した(p66)

・源頼朝が都で幕府を開かずに東国にとどまったのは、東国の武士たちが土地に縛られていたから、源義朝、源義政も東国の武士を呼べなかった失敗がある(p67)

・平家滅亡の遠因は、源頼朝を東国へ流したことにある、都で栄達を求めた平家は、源氏よりも早く東国に進出していた(10世紀頃)が、いつしか東国の武士の実力を忘れてしまった(p70)

・縄文時代に日本列島で栄えたのは東日本、岐阜から富山を貫く高山本線の東側が縄文人の楽園と考えられ、植生はこのあたりの東西で大きく替わる、縄文時代は1万年近く続いたので、日本文化の形成に縄文人が果たした役割は大きい(p89)

・弥生時代になり新たな文化が西から東に流れ込むが、奈良盆地(関西の中の縄文)が防波堤になり稲作の東漸を食い止めていた(p90)

・ヤマトの象徴である前方後円墳は、4世紀にかけて福島県会津若松まで伝播していたが、東北の北部域はその新たな埋葬文化を拒んだ(p97)

・蘇我氏を滅ぼすことで権力の座を勝ち取った藤原氏は、東国を敵視した、例として、三関固守(鈴鹿:伊勢国、不破:美濃関ヶ原、愛発:越前)であり、その東側が古代の東国である、この東を古代の「関東」という(p115、141)

・平氏も源氏も、藤原氏の思惑で都から遠ざけられていて、藤原氏の思惑で関東に連れてこられた点で利害は一致した(p137)

・摂政は幼少の天皇を補佐する、関白は元服後の天皇を補佐する役目、摂政は天皇の外戚が条件だが、関白はその必要がなく、藤原北家の出身で、大臣か前大臣であれば良かった(p154)

・藤原氏は、神話の世界に登場する天児屋命(あめのこやのみこと)を租として、長い間「中臣」を名乗る一族で、6世紀には物部氏とともに排仏派として活躍し、蘇我氏の寺を破壊していたりした(p184)

・藤原氏により古代から続く名門貴族(蘇我:石川、物部:石上、大伴:伴、阿倍、紀氏等)は、ことごとく没落させられた(p185)

・蘇我氏は、古代朝廷の不文律であった合議制(各部族から代表者を出す)を崩していなかった、藤原氏の考え方(自分たちの一族のみ栄えれば良い)は、それまでの日本には無かった(p186)

・日本書紀は「中臣氏」を改革派と位置付けるが、真相は全く逆で、蘇我氏=改革派、中臣氏=旧知派、反動勢力とみなせば謎が解ける(p198)