・一般的に、忍城の水攻めを行ったのは石田三成だとされてきたが、三成は秀吉の命を受けた忍城水攻めの現場執行官でしかない、はじめから忍城の水攻めを計画して、執行を命じたのは秀吉(p2)
・三成は河川の水を導入する堤防の築造には成功したものの、最後まで荒川の水を堰き止めることはできず、結局、そればもとで忍城の水攻めは幻に終わった(p3)
・秀吉には多くの側室がいたが、名前の判明するのは9名、淀殿・松の丸殿・三条殿(蒲生賢秀の娘)・三の丸殿(織田信長5女)・加賀殿(前田利家の娘)・姫路殿(信長弟の信包の娘)・かい姫・山名禅高(豊国)の娘、おたね殿(p36)
・成田家は忍城攻めの後も存続するが、後継ぎをめぐる二度のお家騒動で元和8(1622)に取り潰し(p40)
・家康は天正11(1583)に、娘督姫を北条家の当主氏直に嫁がせて同盟締結、秀吉に対抗するため(p48)
・家康は秀吉が実母までも人質に送ってきたことで、秀吉への臣従を誓った、天正14年10月(1586)、家康の正妻となっていた朝日は4年後に病気で死亡(p51)
・天正18年3月に、箱根の険難を守る堅城山中城に、豊臣軍最初の攻撃がなされた、半日で城を落とした(p69)
・忍城に入った領民たちは、戦の避難所として入城したわけで、敵との戦闘が目的ではない、しかし領民は武器等を持っており、城方にとって兵数の不足を補うことのできる貴重な戦力であった(p80)
・忍城攻めより5年前に行われた天正13の紀州太田城水攻めでは、堤防の一部が決壊し、攻撃軍(宇喜多秀家)に多くの溺死者が出ている、水攻めは大変高度な技術を要する作戦である(p87、91)
・忍城攻撃軍の構成は、石田三成・大谷吉継・長束正家といった奉行衆であり、主君の命を忠実に実行するのが任務(p87)
・秀吉朱印状によれば、6月5日時点で2万の兵で忍城を完全に包囲していたのは事実(p88)
・忍城攻防戦において史実は、豊臣軍に囲まれたばかりの早い時期に、戦うことの不利を悟って早々に秀吉に助命嘆願を行っていた、それを秀吉は無視した(p95)
・城側と豊臣軍との間で行われた攻防戦が確かな文書で確認できるのは、唯一浅野長吉らによる皿尾城(忍城の支城)の戦いのみ、それ以外は後世の創作(p101、102)
・忍城を取り囲んだ堤防は全長14キロあり、紀州太田城の約3倍、備中高松城の約4倍もある、水攻め史上日本最大の堤防であった(p106)
・堤防工事が終わったと推定される7月4日、5日には、北条氏は秀吉に降伏していて、6日には小田原城は家康の手に引き渡されている(p108)
・水攻めは堤防を築いたのみではできない、そこに川を堰き止めて水を入れるという作業が加わって初めて、城の周囲を水没させることができる(p109)
・城の水攻めは世界で知られているのは5例のみ、その3例が、備中高松城・紀州太田城・武蔵忍城、中国の普陽城(失敗)、オランダ軍が堤防を壊した(p112)
・石田三成の忍城水攻めも、忍城総攻撃もなかったのが史実(p113)
・いつの世も、責任を取らされるのは、その命令を忠実に執行しようとした現場の執行官(忍城攻めでは石田三成)である(p115)
・甲斐姫が秀吉の側室になった後、成田氏長兄弟が上洛すると、御家人同様に扱い、翌年には3万石(弟には5千石)を授けた(p135)