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summary

信長の血統 (文春新書)

信長の血統 (文春新書)の写真

・信長は、文官としては義昭が任じられた参議の上の権大納言に任じられている、公家の場合ならその上に大臣がいるが、武家が叙任する官職としては破格であった(p20)

・信長は、右大臣・右大将の両官を辞任したが、正二位の位階は維持しているので、朝廷を否定したり独立しようという兆候は全く見れない(p21)

・信長は権大納言に任じられた時点で、単なる軍事政権ではなく正当な武家政権として認められていた、いったん認められてしまえば、その後は辞職しても構わなかった、天皇を退位した上皇が朝廷の第一人者になるのと同じ(p23)

・京都での馬揃えにおいて、織田一門は織田信忠が、80騎で美濃・尾張衆を率いて、信雄は30騎で伊勢衆を率いた、その後は、信包(信長の弟)、信孝(三男)、津田信澄(甥)で、この5人が織田一門の中核をなしていた(p29)

・戦国大名の軍団は大名直属部隊(馬廻り)しかいなくなる、有力な者は軍団を任されて独立するので(p36)

・本能寺の変において、信長が「是非に及ばず」と言った現代訳は、それ以上の応答を拒否する響きを待った「わかった}というような言葉(p53)

・本能寺の変は、黒幕がいるという説には根拠がなく、光秀の単独犯行と見るのが妥当(p57)

・信忠が自殺したとき、討ち死にした者は、村井貞勝(二条御所への移動を勧めた)、毛利新介(桶狭間で活躍)等もいた(p63)

・本能寺の変後、秀吉の居城長浜城は、京極・阿閉により落とされた、丹羽長秀の佐和山城も落ちて、近江はほぼ抑えた(p65)

・手紙に「様」ではなく「殿」を使っていることろから、秀吉は両人(織田信雄、信孝)を信長の息子としてしか見ていないと判断される(p101)

・小牧長久手の戦いの信雄と秀吉の講和が成立すると、朝廷は秀吉に従三位・権納言に叙任した、これにより羽柴政権となった(p154)

・秀次事件によって豊臣政権は弱体化した、秀次は尾張清州城主であり、与力には、田中(岡崎)池田(吉田)堀尾(浜松)山内(掛川)中村(府中)がいて、尾張から駿府へかけて家康の抑えになっていたから(p203)

・羽柴秀勝が朝鮮で病死すると、その領地(岐阜)に三法師(秀信)に13.3万石で与えた、冠位は従四位下・参議、天正5年5月には従三位・中納言
に昇進している(p205)

・関ヶ原の戦いは、豊臣政権の後半期に与えられた織田一族の領地のほとんどを失わせる結果となった。(p211)

・豊臣家は、全国に配置された蔵入地(直轄領:200万石弱?)が、慶長8年2月に家康が征夷大将軍になると、幕府により接収された(p212)

・江戸時代を通して存続した信長の血筋は、次男信雄の家系が、大名2家と旗本2家に分かれて続き、7男・9男の家系も旗本として存続、有楽の家系は、大名2家、信包系が旗本として続いた。(p219)

・秀吉は信長と違って世襲制権を築き上げることができた、家康が将軍宣下するまでは豊臣政権の枠組みは続いていたので、家康は大阪の陣で豊臣家を潰さざるを得なかった(p222)