・応仁の乱は、1467.5に始まった、有力な守護家の家督争い(細川氏と山名氏)の対立に、東軍(細川)16万、西軍(山名)11万という大軍同士が激しく争い、京都の町は2日間で大方が燃え尽きた、講和の後も室町将軍の権威は失墜して守護も没落した(p18)
・秀吉は家康に対して、大陸に兵を出すことに賛成してくれるなら、家康には負担をかけない内示をしていた(p36)
・王朝創設の翌年だった1393年、李成桂は2つの国号を用意した、朝鮮という由緒あるものと、和寧という彼の出身地の地名であった(p53)
・小西行長は豊臣政権の奉行たちから国書書き換えの承認を受けていた、彼がすべて単独で講和を進めていたことではないことが秀吉にもわかり斬首を免れた、そして1597年に再度、慶長の役を始めた(p61)
・慶長の役の目的は、朝鮮半島南部の4道を、戦功のあった武将たちに分け与えること(p64)
・慶長の役で当初、豊臣軍にとって幸いだったのは、李舜臣が獄につながれていたから(p65)
・慶長の役の朝鮮撤退において殿(しんがり)を務めた島津軍との戦いにおいて、海上で陣頭指揮をとっていた李舜臣は戦死した(p71)
・1617年の徳川秀忠の使いとして朝鮮国王に渡した国書には「日本国王源秀忠」の名前と書かれていた(p93)
・西国の大名は競って、陶工を連れ去り、領地で焼き物をつくらせた。有名なのは、有田焼・薩摩焼・萩焼であり、これらは貴重な財源となった(p105)
・1636年(寛永13)に、朝鮮通信使がきたとき、後金が国号を清に変えて、12万という大軍で朝鮮半島に押し寄せた(p126)
・日本が輸出したのは銀、朝鮮から輸入したのは、中国生産の絹糸や、朝鮮人参である(p135)
・豊臣家から政権を奪った徳川家に大義名分はあるか、という疑問が残っていたなかで、外国使節の日光参拝は、家康の業績が外国でも認められたことを強く印象付けた(p140)
・貿易再開の交渉を名目に、1640年5月にマカオのポルトガル政庁が長崎に入港したが、幕府は船を焼き捨て、使節および乗組員全員の61名を斬首した(p143)
・韓国は1961年の軍事クーデターによって武の国になり、文民大統領が誕生した1993年まで続いた。科挙は、今も大学入学試験として残っている。毎年11月1日に受ける試験(修能)として残っている(p175)