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summary

国家の盛衰

国家の盛衰の写真

・軍事力と経済力は覇権国家を支える車の両輪と言える。(p28)

・奴隷は、現代の石油や石炭に匹敵するエネルギーだったが、中世になると奴隷制は消えた。それを大規模に復活させたのは、1600年代にイギリスからバージニア植民地に入植した、のちにアメリカ人と言われる人でアフリカから輸入した。1865年に廃止されるまで200年続いた。奴隷人口は400万人(1860)に達した(p34)

・ローマ帝国の奴隷制は、300年以上も続いた。新たな奴隷を獲得せずに確保できたのは、捨て子を奴隷にした可能性もある(p38)

・文化大革命(1966-1977)で行った「批林批孔運動」で、孔子と儒教を徹底的に排撃したにも拘わらず、今では、中華民族の先祖は孔子だ、と共産党は言っている(p42)

・中国の省は、昔からあったと考えがちだが、実はモンゴル民族が元朝の時代にはじめて設けた制度である(p46)

・日本が衰退をたどり始めたのは、ミッドウェー海戦(1942)に始まり、続く、マリアナ沖・レイテ沖海戦の二つの敗北で決定的になった(p75)

・ローマ帝国の「分割して統治」は、都市国家AとBの間
に条約を結ばせず、ローマとA、ローマとBというように個々に条約を締結した(p77)

・ローマが長期的に反映した背景には、ローマ人の敬虔さと真面目さ、分割統治、寛容な精神(敗戦将軍の名誉守る)などがあるが、法の前の平等が特に重要である(p82、88)

・ローマ軍を最強軍団に変えたのは、執政官マリウスが、農民中心の徴兵制から志願制へ転換してから(p85)

・ローマ帝国滅亡の内的要因の一つとして、キリスト教の拡大・台頭がある(p115)

・広大な植民地を経営したスペインは貿易では成功しなかった。同時代のオランダ、ポルトガル、のちのイギリスのほうがはるかに優れていた。(p126)

・オランダの海軍力を叩き潰したのは、1381-1696にかけて9回も制定された、イギリスの航海条例である。イギリス本国と植民地には、外国船を入れない、イギリス人乗組員が半数を占める等の条件(p137)

・イギリスのエリザベス1世は、私掠免許を海賊たちに与え、スペイン船やオランダ船に略奪行為を働いて、奪った金品が国家財政をささえた(p138)

・スペイン衰退の理由は多くあるが、真犯人は1480年から始まった宗教政策で、イスラム教徒を追い出し、ユダヤ教徒を迫害したこと(p141)

・イギリスの三角貿易とは、欧州から武器・雑貨をアフリカに輸出、それと交換にえた奴隷を、アメリカ大陸や西インド諸島に送り込み、そこから砂糖・綿花・タバコ

・コーヒーを欧州に売り込んだ。これにより、工業立国という表の顔と、奴隷貿易国の裏の顔を持った(p155)

・ロンドン市の人口に占める白人の割合は、2011年において10年前と比較して13ポイント下がって45%となった、市の人口は100万人増えているので外国生まれの住民が急増している(p178)

・イギリスは、マレー沖(1941)・セイロン沖(1942)海戦で日本に敗れて、自信を失った(p181)

・建国当初のアメリカは、ローマやギリシアの影響を受けて奴隷制度を復活させたが、中世に発生した騎士道の影響は見れない(p187)

・ローマに奴隷制が生まれたのは、征服戦争で多くの属州を獲得したため、土地と労働力が結びついた。アメリカは領土拡大にともない、戦争捕虜のかわりにアフリカから奴隷を求めた(p189)

・第二次世界大戦において、イギリスは植民地をほとんど失った、終戦時のシナには中国軍に勝利していた100万人の日本軍がいた。ソ連も経済的に停滞して、結果的にはアメリカの独り勝ち(p192)

・今から70年前に、日本とアメリカは空母を集めた機動部隊で、軍事作戦を展開できる能力を持っていた。史上最大の機動部隊どうしの海戦であるマリアナ沖海戦、現代に至るまで史上最大の海戦といわれるレイテ沖海戦を繰り広げた(p196)

・アメリカは鉄道敷設により莫大な対外債務を抱えていたが、スペインとの米西戦争、フィリピンとの米比戦争を経て、更には、第一次世界大戦で対外債務を一掃して債権国へ転化した(p200)

・アメリカが1930年に成立させた「スムート・ホーリー法」は、約2万品目の関税を平均50%も引き上げるもので、欧州諸国に大打撃を与えた(p202)

・ドル紙幣の発行はアメリカ政府が決めるが、その時に新たに刷る紙幣に見合った額の国債を発行し、FRBが国債を引き受ける形で紙幣を刷る。FRBは国債の利子を受けとれるので、その利益は配当という形で還流される(p208)

・中国を治めるには、ひとつの国や王朝では難しい。四川料理圏、北京料理圏、広東料理圏、上海料理圏など、中華料理の数でわけたら良いのではないか(p251)

・戸口と呼ばれる中国の戸籍制度は、1950年に制定。農村戸口(6割以上、収入は7分の1)と、城市戸口があり、社会生活や社会待遇で大きな差がある(p252)