・縁切寺とは、女の側からの離婚が制度上認められなかった当時、たった一つ、妻が離婚を許される場所であった(p22)
・養子縁組をしたのちに実子ができたら家の中が紛糾する、しかしその間に当主が死ねば断絶となる。家光までに、無嗣のために廃絶された大名家は、57家400万石、お家騒動で処分された大名は、62家600万石であった(p47)
・糸割符商法の仕組みは、京都・長崎で各100、堺120で分配して販売するもの。後に、江戸50、大阪30(後に100と50)となった(p57)
・秀忠は征夷大将軍となり、内大臣正二位、淳和院別当になり、牛車兵仗を許されたが、通常は附属される、源氏長者と将学院別当は家康のまま(p131)
・忠輝は大坂夏の陣で合戦に遅れて領地没収となったが、その遠因は秀頼と親近感を抱いていたからかもしれない(p138)
・武家諸法度の第三条(たとえ不合理であっても法を批判し、法に抵触することは許さない)は、1635年家光時代に削られている(p192)
・榊原康政は、秀忠への使者(病気見舞い)と、家康への使者で振舞を間逆にした。家康が影武者(二郎三郎)と知っていたからかっも知れない(p199)
・当時の銃弾は鉛であり細菌に汚染されていたので、銃弾を急速に抜き取り消毒しなければ破傷風になり壊疽して、死亡する。死亡率が高かったのはこのため(p232)
・金一枚を45匁とすると、一駄が27貫、小判一両が4匁8分、2千貫で40万両、金1両が現代の値で14-15万円とすると、家康が駿府に運ばせた金銀は、合計78万両、1092億円から1170億円となる(p240)
・富士川と天竜川の水運を開くことで、甲州信州の年貢米は、遠江三河のコメと等しく、江戸ではなく駿府に集まることになった(p242)
・亡八とは、孝・悌・忠・信・礼・義・廉・恥の、8の徳目を亡失しなければできないから「亡八」と言った(p346)
・剣士は名を重んずるが、忍びは、あくまで実をとる(p349)
・目黒の御鷹場は柳生道場に近く、現在の目黒雅叙園近くにあった(p377)
・二郎三郎を絶対裏切らない可能性のある人間は、関ヶ原以後に生まれた、五郎太丸・長福丸・鶴松(頼房)の三人の子供である(p428)
・大阪にあった大和の能楽四座(観世座、宝生座、金春座、金剛座)を、駿府に移住させた、家康死後には江戸に移った(p432)
・戦闘的布教団とも言えるイエズス会に対して、フランシスコ会は厳しい戒律と清貧の教えがあった(p464)
・オランダがスペインから独立するまでは、オランダの船はポルトガルの港リスボンに自由に出入りできたが、独立後は禁止された。従って、イギリス同様に、東方貿易を始めるしかなかった(p468)
・慶長14年は、異常なまでに雨が多く、正月から八月までに雨の日が120日あった(p485)
・大久保長安の手にかかると、石見の銀、黒川の金、佐渡の金銀、伊豆の銀、たちまち蘇り多量の鉱石を吐き出すことになった(p495)
・忠輝は、ポルトガル語、イスパニア語、オランダ語、広東語、福建語を話すことができた(p510)
・忠輝は、元和2年に改易された。92歳まで、秀忠から綱吉まで四代の治世を生きた。昭和62年に至って371年ぶりに、徳川宗家からご赦免の許しがおりた(p528)