・京都の町衆は、日本人の「よそさん」を外国人なみに捉えてきた。東京や大阪の資本が支える店を、しばしば「外資系」と彼らは陰で言う(p36)
・大阪では京都に近いことが、しばしば「からかい」の的となる。こういう揶揄が成り立つのは、大阪人があまり京都を敬っていないせいである。京都を見くびる度合いは、大阪が一番強い(p40)
・長じて出会った洛中の人々は、祇園祭は洛中の、町衆がいとなむ祭りであり、嵯峨の田舎ものなんか関われない、と思っているが、学校の公教育は、いっさいそういうことを知らさない(p49)
・女の芸者をただの芸者とよびだしたのは、江戸東京の花柳界である、京大阪、上方では、彼女たちを「芸子」と名付けていた(p67)
・信長が本能寺に宿をとったのも、室町以後の慣例に従ったもの、僧侶たちの接遇を気に入って、この寺をひいきにしてた。京都の寺は、武将たちをむかえる「おもてなし」の場になっていた(p122)
・江戸時代前半期に、宴席で客をもてなしたのは「男」であった。戦国以来のマッチョな男社会は、女が男の席に侍ることを嫌がった。18世紀の中頃には、その仕事が女に引き継がれている。男社会ほどに女を疎んじない町人社会が到来した(p129)
・首都を今も京都だとする立論のよりどころは、遷都の詔勅がまだなされていない点にある(p135)
・蛤御門の変では、京都市中の家屋敷が広い範囲に渡って焼き払われた。京都を視野に入れれば、明治維新が無血革命という話にはならない(p138)
・幕末の京都を幕府の側から守っていたのは、おもに会津の藩士であった、その置き土産とも言えそうなものが京都にはある、それが同志社という学園(p139)
・明治の維新政府は、建仁寺という寺の北半分を取り上げられた、その土地に、お茶屋などが群がり、のちの花街が形成された(p142)
・京都を代表する寺々は、たいてい明治維新で寺地を没収された、清水寺などは、寺域を10分の1以下にされている。南禅寺も同様(p143)
・寺の土地を半分以上、寺によっては9割までを奪い取り、国家の財政へ供させる恐るべき荒技である。こういうやり方を見ていると、明治維新は大変な革命であったと思い知らされる(p145)
・徳川政権は、政治的な中心を江戸に置いたが、経済的な役割は大商人の集まる大坂、京都の朝廷には、学芸に生きることを求めたと言われる。それ以外に、幕府が京都へ寺社経由の浄財を集中させたことも強調したい。仏教世界では京都が君臨することを事実上認めた(p151)
・戦国時代までは銀貨を鋳造するところが各地に点在した、それを徳川家康は伏見にもうけて統一しようとした(1601年)、その後に、京都の洛中、つづいて駿府、さらに今の東京銀座辺りへ移動した(p164)
・南北朝の内乱では、北朝が勝利している、南朝側のだした和平の条件は、踏みにじられ皇位は、北朝側の系統が今に至るまで独占している(p182)
・敗者の神格化が史料で確認されるのは、平安時代になってから、8世紀の早良親王、10世紀の菅原道真、聖徳太子の一族のための、法隆寺、後醍醐天皇のための、天龍寺。南朝を正統だとする儒学的な見解もある(p195、202)