・詰めの城というのは本城の背後にあり、普段は平地の便利な本城で過ごすが敵の侵攻などを受けると高所の詰城に避難するのが戦国時代の常道である。甲斐武田氏の躑躅ヶ崎(つつじがさき)館が本城、背後の要害山城が詰の城という組み合わせが代表的なもの(p29)
・信長は義昭から、近江・摂津・和泉・河内のうちで一カ国を与えようと言われたのに対して、この3箇所の代官配置のみを希望した。1カ国を面で支配するより、尾張清洲ー美濃岐阜ー近江草津ー近江大津ー京ー堺と、経済と軍事の動脈を貫通させて、大経済圏をつくりより大きな税収を確保しようとした(p60)
・本圀寺(ほんごくじ)の変の明智光秀の活躍により、信長から注目され信任を得た。その2ヶ月後に光秀は歴史の表舞台に立った(p65)
・進行した軍勢が大急ぎで退却する場合、部隊の前後入れ替えなどはせずに先鋒がそのまま殿軍となるのが常識である。若狭へ先行した光秀が継続して先鋒となって越前へ進み、金ヶ崎城で開城交渉をおこなった秀吉とセットで最前線に布陣、そのまま殿軍となった(p90)
・延暦寺焼き討ち後、光秀は信長からその功を賞されて滋賀県の支配権を与えられた、同時に義昭から上山城の指揮権が与えられた(p104)
・光秀は幕府奉行衆をはじめとする幕臣の利益代表というよりむしろ、率先して押領に奔走する男であったことは疑いようのない事実である(p110)
・目下のものに連署状を出す場合、日付の真下に署名する人物が最上位、そこから左に遠ざかっていくに従って下位になる(p113)
・目的のためには日頃の付き合いも平気で切り捨てる非情さが光秀にはあった、フロイスの文書にもある(p150)
・荒木村重は謀反を起こしたが、村重の好力で寄騎である高槻城・高山右近、茨木城・中川清秀が信長に協力したので状況は変わった(p210)
・雨天により鉄砲が無力化してしまった光秀の陣城はその威力を十分に発揮できず正面防衛に多数の歩兵が必要となったために側面防御が薄くなり圧倒された、鉄砲が使えない中で数時間におよび2倍以上の羽柴軍相手に善戦したのは、光秀の作戦計画の優秀さを証明している(p259、260)